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ヨイド“飛行場”と秘密の地下バンカー

2021-08-28

KBS WORLD Radio



金融ビジネスの中心地として発展した汝矣島(ヨイド)は、かつてはしばしば洪水に襲われる中州の荒れ地だった。1968年から周囲に堤防を作り開発計画が進められた。今は汝矣島公園となっているこの場所には、日本統治時代には日本軍の飛行場があり、朴正煕大統領時代には、有事には滑走路として使える広場が建設された。



汝矣島公園に展示されているC47輸送機。日本が無条件降伏した3日後の1945年8月18日、中国西安を飛び立ち、汝矣島飛行場に着陸した輸送機には、米軍将校と光復軍の特攻隊「挺進隊」の4人が乗っていた。挺進隊の兵士らは日本軍と交戦せよとの大韓民国臨時政府主席金九の命令を受けていた。



白凡広場の金九像。臨時政府が連合国軍側の交戦国・戦勝国の承認を得るには、光復軍が日本軍と一戦を交える必要があると金九は考えていた。しかし、挺進隊は米軍将校から武器の使用を禁止され、翌日再び中国に戻るしかなかった。金九主席は1945年11月、同じくC47で帰国したが、結局、臨時政府が戦勝国としての扱いを受けることはなかった。



汝矣島金融街の歩道にある「SeMAバンカー」入り口。2005年、それまで存在が知られていなかった地下施設が見つかった。ソウル市や国防部、国土交通部などどこにもこの施設に関する設計図や工事関係書類が残っておらず、だれが何のために作ったのか分からない謎の施設だった。



地下施設の内部には、高級ソファーやシャワー・トイレ室を備えたVIPルームなど広さ600㎡の空間が見つかった。天井は厚さ50㎝の特殊強化コンクリートで覆われていた。この地下バンカーの場所は、国軍パレードが行なわれた汝矣島広場の観閲台の下にあったことがわかり、大統領警護室が直接工事を指揮したものと見られている。



地下施設が建設されたのは、北朝鮮ゲリラによる青瓦台襲撃事件(1968年)や朴大統領銃撃事件(1974年)のあと、「ソウル要塞化計画」(忠武計画)が進められた1976年から77年初めにかけてと見られている。ソウル市は「未来遺産」として保存し、2017年からSeMA(ソウル市アートミュージアム)が管理運営するイベントスペースとして公開している。

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