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歴史

加耶、独特な埋葬文化と倭との交流

2022-07-22

金曜ステーション

金官加耶の始祖・首露王の陵墓。『三国遺事』によると金官加耶は西暦42年に首露王が建国、現在の金海市に中心地を置いた。加耶は一つの国というより小国同士のゆるやかな連合体で、金官加耶を中心にした初期加耶連盟と大加耶を中心にした後期加耶連盟があった。


福泉洞古墳群(釜山)。四角い石積みの石槨墓が地下に200基あまり埋まっている。山の頂上や稜線に墓を作るのは、来世に生き返るという「来世思想」があり、来世と繋がるのが天空に近い山の上と考えられた。来世を信じていた証拠が「殉葬」という埋葬文化だった。


池山洞古墳群(高霊)。700基あまりの円墳が山の稜線部分に並んでいる。来世の生き返りに備え、殉葬者は身の回りの世話をする侍女や警護の兵士など最大40人まで増えた。内部の石槨墓の構造が大型化するにつれ、それを覆い隠す墳丘が必要となった。


加耶と密接に交流した倭は加耶を通して土器や鉄器など当時の最先端技術を導入、須恵器と呼ばれる固い焼き物、鉄の加工技術、馬の文化などを定着させた。日本の5世紀は「技術革新の世紀」と呼ばれ、倭の歴史を知るには加耶の歴史を知る必要があるといわれる。


副葬品の倭系遺物。左上から時計回りに、関西の古墳で多くみられる巴型銅器と筒形銅器、糸魚川のヒスイを使った勾玉を飾った王冠、沖縄の夜光貝を加工した器。加耶の支配階級は倭との交易を独占し、権威を示す「威信財」として倭系遺物を利用したことが伺える。


加耶と倭の交流をテーマにした国際企画展「加耶~古代東アジアを生きた、ある王国の歴史」が国立歴史民俗博物館(2022年10月4日~12月11日)と九州国立博物館(2023年1月24日~3月19日)で開かれる。加耶に関する展示が日本で開催されるのは30年ぶり。


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